鼎談「人的交流の原点と信念」

令和7年12月3日
1 井川原賢 駐モンゴル日本国特命全権大使
2 R. ジグジッド 元日本駐箚特命全権大使、モンゴル日本関係促進協会会長
3 S. バトトルガ モンゴル国立大学教授、JUGAMO(日本帰国留学生の会)会長
 1974年に日本とモンゴルとの間で文化交流取極が締結された50周年を記念し、2024年9月に実施した鼎談の全文を掲載いたします。
 本鼎談では、両国間の人的交流の黎明期、民主化後の転換期にそれぞれ日本に留学し、帰国後に両国関係発展に尽力してきたR.ジグジッド大使(元日本駐箚特命全権大使、モンゴル日本関係促進協会会長)、S.バトトルガ・モンゴル国立大学教授(JUGAMO会長)の両名と井川原大使が「両国の人的交流の原点」とのテーマとして、両国間の人的交流の過去を振り返りつつ、将来の展望を描く大変有意義な内容となっています。
 1974年の文化交流取極は両国の人的交流の端緒を開く重要な役割を果たし、締結翌年の1975年には日本からモンゴル政府奨学金による留学生受け入れが開始された他、モンゴル国立大学に日本語コースが開設され日本語人材の育成が開始し、翌76年に初めての日本国政府奨学金留学生がモンゴルから派遣されました。その後も両国の留学生交流は一定の規模で継続しますが、1990年のモンゴル民主化を契機に人的交流が飛躍的に拡大しました。これを受け、1995年には日本帰国留学生の会(JUGAMO)が設立され、現在では2000名を超える会員が所属する組織として、両国の留学生交流を通じた人的交流に大きく貢献しています。
 本2025年はモンゴルにおける日本語教育開始50周年、JUGAMO設立30周年の節目にあたり、様々なイベントが開催されましたが、改めまして記念行事の実施にご尽力いただきました関係者の皆様方に心より御礼を申し上げます。在モンゴル日本大使館は、留学生交流を含む両国の人的交流について、全ての関係の基盤となる「人」の育成を通じた協力関係の更なる発展に、今後も尽力してまいります。

1.1980年代半ばまで

バトトルガ: 日本モンゴル文化交流取極が1974年に締結されて、2024年に50周年を迎えました。その2年前の1972年に両国の外交関係は樹立されていましたが文化取極というのは非常に重要で、この取極締結後に人的交流が盛んになったという事実を見ると、まさに人的交流の基盤の上に今の日本とモンゴルの関係発展が築かれたという印象を持ちましたが、いかがでしょうか。
ジグジッド: おそらく外交関係はできたけれども、これからどうやって両国関係を発展させていくかという課題が双方にあったと思います。それがまず文化という側面から始まったということだと思います。その次に経済協定等いろいろ広がっていきますが、こういった文化交流取極が締結されたことによって人的交流、言い換えると双方の留学、研究が可能になりました。この取極締結により1975年にD.トゥムルトゴー氏が客員教授、B.チンバト氏が研究生として渡日しました。その後1977年にS.デンベレル氏らも研究生として留学しました。当時は日本語専門の方々がメインだったと思うのですが、その後、両国がゴビ・コンビナート、カシミアとラクダの毛を加工する工場を経済協力という形でモンゴルに作ろうという計画が起こり、そうするとそこで働く人材がどうしても必要になってくるわけですね。そのため、技術人材を育成させるために最初の学部留学生として私とP.ガンホヤグ氏が1980年に留学しました。
実際に行ったのは1980年3月28日ですが、実は準備に2年以上かかっています。私がモンゴル国立大学の数学・物理学部に入学したのは1977年です。当時はモンゴルの軽・食品工業省が技術系人材育成を担当していて、その省の総務・人事担当部が各大学に留学生募集をしていました。私は数学、物理、化学、英語の試験を受けて、最後に面接を受けました。当時、モンゴル外務省職員であったS. フレルバータル大使とモンゴル国立大学客員教授の城生先生という背の高い日本人の先生が外務省で面接をしたのを覚えています。その後、結果が出るのはだいぶ遅くて、大学3年生の半ばごろに合格の通知が来ました。どうしてそんなに時間がかかったのかと言うのは、後から分かったのですが、当時、モンゴルの初中等教育制度が10年制で、日本の場合は12年制だったので、大学入学前の教育年数が足りないということで、2年間大学で勉強しなければいけないという理由があったらしいです。時系列的に整理すると、1974年に文化交流取極締結、ゴビ・コンビナートが1976年から建設が始まり1981年に完成、私たちはその完成1年前に留学に出発したということで、両国政府が人材育成に計画的に取り組んでいたことが分かります。
バトトルガ: モンゴル国立大学で日本語教育が開始されたのは1975年ですが、当時はモンゴル語専攻の学生の中から外国語を選択して、日本語を学ぶシステムになっていました。蓮見先生、二木先生らが日本語を教えていました。興味深いのはその中に日本人ではなくてフルンボイル出身のYa.シャーリーボー先生という方が教鞭を執っておられたということです。日本語以外にチベット語、満州語もできた先生と聞いています。
ジグジッド: 私は1980年はじめに留学が決まって、事前に少しでも日本語を勉強しなければいけないとなり、そこで初めてそのYa.シャーリーボー先生、S.ドルゴル先生、D.ナランツェツェグ先生が私たちにひらがなとカタカナを1か月教えてくれて、それで日本に行きました。
井川原: 社会主義の時代に、日本に対してどのような印象を持っていましたか?ご家族の反対などもあったでしょう?
ジグジッド: 大事な視点ですね。当時は冷戦の真っ最中ですから、アメリカは資本主義、日本は軍国主義、そう教えられていて、行ってみたら全然違っていた訳です。
井川原: 日本に留学することはご自分で希望したんですね?
ジグジッド: はい、そうです。もちろん当時はそれほどみんな手を挙げて行きたい、行きたいということはありませんでした。自分の場合はとにかく外国に留学しようと決意していましたので、家族は必ずしも賛成していたわけではないですけど、なんとか説得しました。政治局からも指導、注意を受けて、気をつけていくように、日本で学んで国家事業であるカシミア産業に貢献する人材になってほしいということを教えられて出発しました。その当時、直行便はもちろんなかったし、ソ連の飛行機でウランバートルからモスクワ、そこからJALの直行便で東京まで行きました。P.ガンホヤグ氏と2人で、もちろん2人とも海外に行ったことなんてないものだから、緊張して行ったわけです。日本での最初の1年は、東京都府中市にある東京外国語大学外国語学部附属日本語学校で予備教育を受けました。運のいいことに、ちょうどその当時の日本語学校の校長がモンゴル語学者の小澤重男先生だったんです。まだ日本に着いたばかりで日本語もほとんどできなかった私たちを週末に海に連れて行ってくれて、モンゴル語学科の学生とモンゴル語での交流会をしてくれたのはよい思い出です。
バトトルガ: 私はちょうどジグジッド大使が留学された1980年に小学校に入学しました。その頃日本にどんな印象を持っていたかというと、テレビで日本についてのドラマが放送されていてそれを見て育ったものですから、友だちと外で戦争ごっことかするときに悪い敵役は日本人。日本人になりたくないとみんな言って、仕方ないから交代で日本人役になると言った感じでした(笑)。
ジグジッド: 一方、日本人はモンゴルをどう見ていたかというと、私たちが日本に留学した頃、日本人のモンゴルに関する情報、知識は非常に薄かった。日本人の友人、知人から出てくる話は、チンギスハーン、遊牧民、ゲル、馬ぐらいでした。それから日本語で誤解されやすいんだと思うのですが、内モンゴルとモンゴル国を混同している人が多かったです。
私たちから始まって1990年までは毎年国費学部留学生が2人ずつ採用されていました。ほとんどがゴビ・コンビナート関連で、特に最初の10人ぐらいは技術系、それからIT、経済等に分野が広がっていきました。私たちの専攻が繊維ということは自分が選んだわけではなくて、国からの命令です。繊維関係の学部がある日本の大学というのは当時、信州大学、京都工芸繊維大学、東京農工大学の3つしかありませんでした。自分たちは東京のモンゴル大使館と相談して、信州大学に進学することになりましたが、なぜかというと信州大学は絹等の天然繊維を扱うのが得意で、カシミアも天然繊維ですからそっちの方にまず行きなさいと。それで最初の留学生の私たちは信州大学に進学し、その翌年からの留学生は京都工芸繊維大学、東京農工大にそれぞれ進学しました。
井川原: 当時日本ではカシミアという繊維はあまり主流の研究分野ではなかったと思うのですが、学んだことというのは直接役に立ったのでしょうか?
ジグジッド: もちろんです。単に理論だけでなく、実習でいろいろな企業に行くわけです。日本の紡績工場は天然繊維を扱っているところが多かったので、それが大変役に立ちました。

2.1980年代後半から1990年

ジグジッド: その頃、両国の関係が徐々に徐々に変わっていきました。特に日本週間というイベントがウランバートルで開催されたことは大きな転機となりました。家電製品、発電機等の日本製品の物産展がモンゴルの市民に非常強い印象を与え、関心が高まるきっかけになったと思います。また日本モンゴル経済委員会というのがありました。日本側は伊藤忠商事(株)の戸崎元会長、モンゴル側は国家計画委員会副議長のT.ナムジム大臣が代表でした。戸崎さんとナムジムさんとの交流が日本とモンゴルの経済交流の活性化に大きな役割を果たしたと思います。それからモンゴルの民主化が起こり、D.ソドノム首相が日本を公式訪問し、モンゴルと日本の関係が爆発するわけです。
バトトルガ: 80年代後半からは日本に関心を持つ人が増えていきました。私がまだ高校を卒業していなかった1985~1986年ごろだったと思いますが、ウランバートルの第13番学校に日本語を授業以外の時間で教えるコースができたと聞いています。詳細は分からないので、どのぐらいしっかり教えていたのかは不明ですが、日本語を勉強したいという流れが若い人たちの中で少し出てきていたようです。
井川原: 80年代後半というのはまだ社会主義ですが、日本語を学ぶ機運は広がっていたんですね?私はまだ社会主義体制だから、先ほどの子どもたちの遊びの話にあったように、日本は敵国という考えがあったのだと思っていました。もちろん1972年に国交樹立しているので、敵性国家ではないと思いますが、民主化が始まる前にそういう日本語を学ぶ雰囲気というのが広がっていたのは興味深いですね。
バトトルガ: 社会主義時代ではありながら、少しそういう動きはあったという感じはします。
ジグジッド: おそらく、二国間の学生交流、文化関係が大きな要因になっていたと思います。日本に留学した者たちも一定の影響を与えたことでしょう。彼らは毎年夏休みにモンゴルに帰省します。モンゴルというのは人口が少ないし、ほとんどがウランバートルに集中していますから、日本についてのニュースや噂はすぐに広がります。そういうことが若者たちの日本に対する興味を惹いたんだと思います。
井川原: 当時は日本以外の西側諸国へも留学生は行き始めていたんですか?
ジグジッド: おそらく西側諸国の中で学部留学生が行ったのは日本が最初だと思います。当時の留学先の主流は旧ソ連、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリア、チェコ等でした。
バトトルガ: 1990年に入ってからどのような変化があったかというと、私は1990年にちょうどウランバートルの高校を卒業しました。その時は10年制だったのですが、社会主義時代の最後の時代で、成績優秀者は金メダルをもらって卒業し、大学に入るときに試験を受けずに好きなところに入ることができました。私もその一人だったので、どこに入るか選ぶことができました。その当時の私たちは今の若い人たちに比べて情報をあまり持っておらず、近所に住んでいた大学生のお姉さんにモンゴル国立大学のどの学部に入ったらいいのかと聞きました。するとモンゴル語学科に入ると2、3年生からいろいろな外国語を学べるよと言うんです。そこで思い出したのですが、私が中学生の頃、モンゴル国立大学のJ.バヤンサン先生という方が近所に住んでいらして、その方はモンゴル語を教えに東京外国語大学や大阪外国語大学に派遣されていました。私はバヤンサン先生の子どもたちと友だちで一緒に遊んでいたんですが、着ている服とかがとてもいいものだったんです。これ、日本から持ってきたんだと、雪用の手袋とか見せてくれて、日本というところはこんないいものを使っているんだなと輝いて見えたんです。その記憶が大学に入る時の進路選択につながりました(笑)。学部の編成などが短期間で変わる時期でしたが、外国語人気は高く、最初の日本語学科に10人ほどの学生が入りました。
私が2年生になった1991年7月に10日間の短期訪日研修に参加する権利をいただいて、10人の日本語学科の学生が日本に初めて行くことになりました。その時は北京経由でしたが本当に全てが新鮮でした。10日間ずっと歩いて、人も多いし、暑いし、疲れましたが。特に東京外国語大学のモンゴル語学科の先生や学生たちと知り合ったのは楽しかったです。今でも「モンゴルの文学」についての小さなスピーチを日本語で一生懸命準備して発表したことが印象に残っています。そんなふうに民主化とともに90年代を迎え、日本に関するいろいろな情報がいっぺんに流れてくることになりました。1992年に国営テレビで日本語講座も作られて、そのときにうちのクラスにテレビの人が来て、出演してくれる学生が2人必要だと言って私と女子学生を選んでテレビ日本語講座に出演させたりしていました。
井川原: その後、もう一度留学されたんですよね?
バトトルガ: そうです。当時は日本語を教えられる教員も少なくて、私たちは3年生の頃から下の学生たちを教えていました。今振り返って考えるとおかしいですよね、若くて経験ないのに。そんな感じだったので卒業したときに教員にならないかという話がきて、もしなるなら9月から長期研修で日本に行かせてあげようと言われて、そんないい話はないということで即OKしました(笑)。それで卒業してすぐ私はモンゴル国立大学の日本語学科の教員になって、その9月から1年間、外交官及び日本語教育者・研究者を対象にした長期研修に行きました。帰国後はモンゴル国立大学で働き、2000年から2008年の間に改めて国際関係分野で留学する機会があり、愛知県立大学で修士と博士を取得して、その後もずっとモンゴル国立大学で教鞭を執っています。

3.1990年代以降

井川原: それ以降は日本モンゴルの留学生の交流、文化の交流というのは順調に拡大発展してきたのでしょうか?それともその後も山あり谷ありだったのでしょうか。時代も民主化されていますので、政治的な影響でマイナスの影響を受けるということはなかったと思われますが。
ジグジッド: おっしゃる通り、マイナス影響はなかったと思います。はじめは文化交流取極に基づいて国費留学生という枠が安定的に広がっていったと思いますが、それと別に今は、民間が圧倒的に増えて、全体的なボリュームは年々増えています。
バトトルガ: 時代の変化と共にモンゴルの若者たちの選択肢も増えてきました。例えば、他の国のいろいろな奨学金制度が増えてきたのでそれも選べる、もう一つはすぐにモンゴルに帰国せずにしばらくは留学先に滞在し、就職して生活している人も多くいます。ここでジグジッド大使から、帰国留学生のJUGAMO会が設立されたときの理由や背景を聞かせていただきましょう。
ジグジッド: 私がモンゴル外務省で日本担当官として働いていた頃ですから、1993年から1994年頃だったと思います。当時、日本大使館に勤務していた菊池稔さんと藁谷栄さんが、他の国には「日本留学生会」というものがあることを話してくださり、モンゴルにもそのような会を設立してはどうかと提案してくれました。当時、最初の留学生が帰国してから10年近くが経っていたので、修了生の数もかなり増えてきていた頃でした。そこでその提案を受け入れ、友人たちと相談して「JUGAMO」を設立し、ウランバートルホテルで第1回会合を開催したんです。
井川原: 何人ぐらい集まりました?
ジグジッド: たしか5、6人だったと思います。それがJUGAMOの最初の集まりです。JUGAMOという名前も随分議論して作った覚えがありますね。正式に団体として発足したのは1995年ですから2025年に30周年ですね。
バトトルガ: 現在は積極的に活動しているのが600人ぐらい、登録されているのは2000人を超えています。JUGAMO会としては日本に留学していた人全体をメンバーと意識して活動をしています。JUGAMO会の目的というのは帰国した留学生たちのネットワークをしっかり形成して拡大していく、みんなで国のために、自分たちの生活改善のために、日本とモンゴルの関係促進のために意見交換しながら交流を深めていくことを目的としています。
バトトルガ: 今の日本とモンゴルの人的交流に基づいた関係は幅広い分野で深まっている、非常にいいところにきていると思うんですけれども、ここからは人材育成、人的交流をどのようにさらに発展できるかということについて、若者の間でも話し合うべき課題ではありますが、先輩であるジグジッド大使、井川原大使のご意見もいただきたいと思います。
井川原: 私はお二人のお話から、日本とモンゴルの人的交流が始まった当時の源流、最初の一滴を垣間見ることができ、感銘を受けました。今やその一滴一滴が滔々と広がりを持つ大きな流れとなり、JUGAMOのメンバーも2000人を超えるという当時から想像もできない人数となっています。国費留学生や民間留学生はその後も連綿と続いてきており、そのお一人お一人のご貢献がモンゴル社会に根ざし、両国関係の促進に多大な影響を及ぼしてきております。その流れは継承されながらも、新たにモンゴルの人材育成の観点から日本政府として二つのプログラムを実施していることを紹介したいと思います。ひとつはM-JEED(工学系高等教育人材育成支援)です。いわゆる1000人の技術者を育成するプロジェクトで2014年に開始した円借款事業です。この事業に基づきこれまで10年間で約900人が日本に赴き、750人がすでに学業、研究を終えて帰国しています。これはさきほどお話がありましたような50年前のカシミア工場という「点」に対応するための技術習得ではなく、モンゴル経済全体の牽引ひいては産業多角化の実現という広域な「面」を対象とする人材育成を念頭においたもので、現在、セカンドフェーズへと移行するために検討を重ねているところです。もう一つは、2001年に始まったJDSという若手行政官育成プログラムです。これはモンゴルの行政能力を向上させるために、学生ではなく、モンゴルの中央や地方の行政組織に携わっている人たちに留学機会を与えるものであり、若手行政官としての知見に基づき日本の諸分野での成功例や失敗例を見ながら、大学で学ぶものです。モンゴルからはこれまで約450人が参加し、すでに380人が帰国されそれぞれの行政機関や中央銀行等で活躍しております。このように拡充した制度もしっかりと継続しながら流れの幅を広げていくことで、多くのモンゴルの人材が世界の海で活躍されることを願っております。
ジグジッド: 私の方からも実際に私が留学後、現場でエンジニアとして働いてきた経験から意見を申し上げると、もちろん学校で学問を教わってくるのはいいことですが、現場実習というのは非常に大事なことだと思います。特にものづくりの技術というのはただ教わるだけでは身につかないものだと思うし、実際に自分の手で触って、自分でやってみて、失敗を重ねて、できるようになるので、次の段階では、現場で実習できる制度を作ってみてはどうかと思いますね。
井川原: それは私も同感です。先ほど私はマクロの観点で大きな流れができていることをお話ししましたけれども、ミクロの視点で見たら、ジグジッド大使がおっしゃったとおり、現場での経験が大切であり、それがなければ、風が吹いたら飛ばされていくような「根無し草」になってしまうと思っています。最近、モンゴルの高専の卒業生で、日本の高専や工学系大学に留学されたり、日本の企業に採用されたりした方々が、現場で麗しいほどの信頼を得ていることを聞いています。例えばその中のお一人は日本の企業で働いているのですが、現場でシニアの日本人の方から、機械の扱い方や原料の種類、さらには生産システムがどうなっているかなどを丁寧に教えてもらっており、それが彼の力となり得難い財産になっていると話していました。理解の根っこが深まることが、日本で働く魅力であるとも話していました。その青年は会社の幹部とともにモンゴルに来て、後輩達の採用を担当しておりましたが、彼の説明を聞いた後輩達は「この先輩の話だったら信頼できるし自分も行ける」と思うようです。このように現場での充実感がないと、本当の社会における活躍にはつながらないと思います。
ジグジッド: 仕事の環境というのは日本とモンゴルはだいぶ違いますね。いくらマニュアル通りに機械を動かして、知識としては頭に入っていても、モンゴルで応用できなければ技術発展にはつながりません。ですから現場で頑張っている若者たちを現場で実習させて職人技を教えるということは産業の発展にとても大事な点だと思いますね。
バトトルガ: 私は最近、モンゴル国立大学でJICAチェアという日本の近代化と発展を研究する授業を担当しています。日本の近代化の流れの中でモンゴル人が学ぶべきものは何かということをディスカッションする内容の授業なんですが、その授業を通して、今の学生たちは社会課題に対する関心が高いことが分かったんです。これまでの交流を振り返ってみますと、短期間で日本とモンゴルの人的交流が深まっているということは、すでにモンゴル人の誰もが理解しています。しかしこれからは留学して学んだことを活かして問題解決に取り組むことができる人材が生まれるというのが非常に重要になってきていると私は思います。日本は日本の問題を抱えており、モンゴルにもモンゴルの問題があって、文化的背景はありますが、ともに問題を解決できるような関係作りができたらいいなと思います。そのためには日本の若い人にたくさん来てほしいです。現場を見て、友だちになって、社会課題をどうやって解決するかということを一緒に考えてほしいと思います。
また、モンゴル人が自分たちの方から積極的に日本社会に働きかけて、一方的に日本からの支援を期待するのではなく、一緒に考えていこうというメッセージを発信してほしいと思っています。そういうところにJUGAMOが一役買えるのではないかと思っています。
井川原:そうですね、JUGAMOもしくは同様の組織は重要だと思いますね。というのは留学して帰国しても母国の職場では自分が学んだことがなかなか発揮できないというジレンマがあることはよく聞きます。そういうときに一時的には日本と関係ないところで働く方もいらっしゃるだろうし、また他の外国との関係を選ぶ方もいると思います。でもそういった中でJUGAMOのようなところがあると、日本に関する情報が入ってきますし、自分はあの時何を学んだのか、何のために留学したのかということを再認識できる、原点を確認できることになると思います。広い意味でのセーフティーネットになっていると思うんです。誰もが留学したからといって日本関係の仕事に就ける訳でもないし、誰もにサクセスストーリーがあるわけでもないけれど、それに捉われず、心地よく、温かい雰囲気があり、それでいて自分の考えに何らかの刺激やヒントを与えてくれるような、そういう集まりであれば、大きな価値があると思います。
 もう一つ私が感じたことは、モンゴルの青年は信念を持っている方が多いということです。ある日本の企業の方にお会いした時にこう言っていたんです。「大使、モンゴルの青年は偉いですよ、自分の住んでいる部屋に必ずモンゴルの国旗があります。」と。あとは国の地図とかね。やはり祖国、国民を思う気持ちを強く持っているが故に、留学も含めて、日本での生活が何倍にも効果をもたらしていくだろうなと思います。それに信念を持っている人っていうのは若々しいですよね。信念は腐朽不滅ですから。ところが信念をなくしてお金、地位、名誉と言ったものに流されると人生は曇ってきます。やはりジグジッドさんを拝見しますと、1980年、それがモンゴルの国の経済発展につながるのだという思いが原点で留学された時のその信念が今もずっと消えていないですからね。ジグジッドさんはある時は技師、ある時は外交官、大使、今はビジネスと立場は変わっていますが、信念を貫いていらっしゃる。そのような若者が私はモンゴルにたくさんいらっしゃると思います。そういう方々が存続する限りは、モンゴルは力強く発展して、いい国になっていくと私は思いますね。
バトトルガ: モンゴルは中国とロシアに挟まれた人口300万人ほどの国です。市場としては小さいですが、しかしそれ以上に大きな価値があると私はモンゴル人として信じていますし、これからもこの価値、意義は高まっていくと思います。そのモンゴルと日本は戦略的なパートナーシップを築いてきたわけですから、他の国に対して戦略的パートナーシップとはこんなものだとお見せできるような関係を発展させていきたいです。
井川原: 2022年にフレルスフ大統領が日本を訪問された際に「平和と繁栄のための特別な戦略的パートナーシップ」設立の共同声明が発表されました。その声明の中での柱のコンセプトは「人」なんです。単なる言葉だけではなくて、具象化していくことが必要だと思います。それを託されているのが、我々です。もちろん若い人たちもそうですけど、若い人たちよりも我々の方が先輩ですので、「これを現実的な行動にしていく」という信念がまずは求められていることを感じています。
最後にもうひとつ、私には夢があるんです。日本とモンゴルが、アジアにとって、あるいは世界にとって、最も平和的で、最も民主主義的で、最も文化的なものを発信できるパートナーとして共に存在し、その魅力を輝かせていきたいというが私の願いなんです。モンゴルは両大国に挟まれて安全保障上、大変ですけど、ロシアや北朝鮮を含め全ての外国と交流ができますよね。日本は日本で、私が思うに最も平和志向で独自の文化を持ちながら人類の平和のために貢献していこうという気持ちが強い国です。そういった両国が今、良好な信頼関係を構築していますが、これを我々が次世代も、次々世代も、50年後も、100年後も更に充実した方向へと発展せしめて、気がついたらモンゴルと日本それぞれがアジア地域で、また国際社会の中で、最も魅力的なものを発信し、国民もそれを享受している国として、またパートナーとして存在し続けていくことが私の夢です。私はひそかに、そうなるんじゃないかなと実は思っており、世界がそのように認知する時がくると思うんです。
ジグジッド: その素晴らしい夢を叶えたいですね。
バトトルガ: 本日、お話をする機会をいただいて本当にありがとうございました。いい話ができました。
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主催:
在モンゴル日本国大使館
 
協力:
モンゴル日本関係促進協会
帰国留学生JUGAMO会
 
参考文献:
「Altan Argamj」(シリーズ第13巻)、2022年
 
写真撮影:
G. Tselmen